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 その夜、ユィマは眠れなかった。
とっておきのワインも気持ちよく飲んだし、みんなと楽しい時間をすごした。旅から戻りとても疲れているはずなのに、頭の芯が冴えわたり、夢魔の世界に入ることはできなかった。
 彼女はするりと寝床を抜け出した。足音を忍ばせて階段を降り、玄関の扉をそっと後ろ手に閉めると、夜の世界に身を浸した。
 外は美しい闇の世界だった。人の心を落ち着かせる静かな闇。その暗闇の中で、聖域の聖なる巨木は柔らかな光を放ち、その存在を静かに示し続けていた。
 天には無数の星の粒の輝き。怜悧な空気を吸い込むと、身体じゅうに清浄な気が満ちて行くような気がした。
(…夢じゃないんだ…)
 その場の静けさに酔ったように、ユィマは家の前に座り込んでいた。
その背後に、ふと、人の気配が立った。
「静かだな…。」
 周囲の闇に溶けこむような落ちついた声は、闇色の核持つ珠魅の騎士。ようやく姿を現した黒真珠の騎士を、ユィマはゆっくり振返った。
「本当に、静かで、きれい。まるで貴女みたいだわ、レディパール。」
「……。」
 胸の黒真珠が鋭く煌いた。珠魅最強の女騎士は、黙ったまま聖域の光を見つめていた。青い月光が彫像めいた横顔を照らしだし、美しい唇からゆっくり言葉がこぼれ出す。
「私は、きれいな者などではない…。長い間、戦い続けて生きてきた。人を殺し、血に塗れて生きてきた…。」
 彼女の瞳は、深い闇を宿し、眼に見えぬ遠い世界を彷徨っているようだった。
「かつて、この世界には珠魅は沢山生きていた…。あの頃、共に生きた皆はもう、私の記憶の中にしかいない。マナの木は焼け落ち、煌きの都市は滅び、我が姫も、大切な友人も、仲間達も失った…。この核が覚えているのは、戦いの中で積み重ねられた記憶だ…。石人形、戦闘人形と呼ばれても仕方がないな。」
「レディパール!」
「ふふふ、年寄りの繰言だ。」最年長の珠魅は自嘲気味に笑った。腰に下げられたエタンセルの黒柱が重々しく揺れる。
「正直言って、この眼で再びマナの木を見ることができるとは思っていなかった。…だが君が聖域に向かったと聞いた時、"時"が来たのだと思ったよ。」
「え?」
「…君が珠魅を愛してくれた時、我々は過ちから救われた。だから、君にならきっとできると思ったのだ。マナの女神を救い、世界を変えること。この長い人生で、やっと変化の時が来たのだと…。女神が産み出せしあの頃と同じ、マナの恵み深い世界に。そうだろう、ユィマ。君はそういう存在だ。」
 彼方で夜鳴鳥の暖かな声が響いた。いつしか、大気には暁の予感が忍び寄り始めていた。世界を覆う漆黒の闇は、紫味を帯びた群青に変化してゆく。珠魅の騎士はすっと背筋を伸ばし、東の空を振り仰いだ。
「私は、聖域に行く。瑠璃にそう伝えておいて欲しい。」
「パール、瑠璃は…」
「わかっている。だが、今は一人で行きたいのだ。心配は無用だ。ここに戻れば、私は消える。この身体、真珠姫に返そう…。」
「違うのよ、パール。瑠璃は、貴女に消えて欲しいとは思っていないのよ。」
 レディパールは、軽く肩をすくめた。
「私は、もう十分長い時を生きてきた。私の力が必要だというなら、いつでも現われよう。だが、珠魅にも変化が必要なのだ。瑠璃のように若い者は、新しい世界で新しい生き方を選べるだろう。真珠姫が、瑠璃と共に新しい生き方を選べるのなら、私は居なくてもかまわない…。」
「……。」
 ユィマはとっさに返す言葉がなかった。レディパールは、いつだって前を見つめていた。他人に頼らず、他人を守りながら力を尽くし、自らの手で解答を掴み取って、生きてきた。だが、この凄烈で毅然と生きてきた長命な珠魅の思いを、誰が本当に理解しているというのだろう?
「パール、あなた…疲れているの?」
 黒真珠の珠魅は、悲しげに微笑んだ。
「潮時かもしれぬ、と思うのだ。…すまなかった。こんな繰言に付き合わせて。君には感謝している。」
 ユィマは思わず、叫ぶように言葉を返していた。
「繰言でも、昔話でも、なんだって聞くわ!疲れたと言うのなら、休めばいい。でも、これだけは覚えていて。みんな、あなたを愛してる。あなたの生き方は私達の誇りよ。みんなが愛してるのは、騎士の力じゃなく、あなた自身なんだってこと、忘れないで!」
 黒衣の騎士は、突然笑い出した。発作的に身体を折り曲げ、笑う彼女の姿は、まるで泣いているようにも見えた。そして、笑い収めた女騎士は、晴れやかな笑顔を浮かべ、きっぱりと言った。
「ありがとう、ユィマ。君は、私にとっても変化をもたらす者だ。今まで他種族の者とこんな風に話したり、ましてや他種族に涙石を与えることなど、考えもしなかった。だが、今ならそれこそが珠魅の過ちであったのだとわかる。だから、はっきり言える。…珠魅だけじゃない。君のことも含め、私も、みんなを、愛してる。」
 そう言うレディパールの表情は柔らかで穏やかで、一瞬、真珠姫の顔に重なって見えた。
「レディパール…。」
「…瑠璃を頼む。」
 珠魅の騎士は、穏やかにそう言って、きびすを返した。涼やかな音を立てて胸の核が煌く。暁の最初の光が、パールブロンドの髪に映えてまぶしい輝きを照らし出した。刻々と白みつつある夜明けの世界に向かい、まっすぐに歩みだす騎士の姿は、まさしく凛とした彼女の生き方そのものだった。

次へ進む・・・はず。