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今日の一冊、特別ページ

「アースシーの風」(ゲド戦記5)について   〜外伝、そしてゲド戦記の総括〜

アイリアンはそのあと、あたりを見まわし、何かさがすように森の縁を目で追っていたが、まもなく「アズバー!」と叫んで、また駆けだした。
かつてトンボと呼ばれていたアイリアンが、世界の中心である幻の森で、様式の長アズバーと再会するシーンです。
短編集「トンボ」の後日譚にもあたる、この場面が私はとても好きです。

「アースシーの風」では、アイリアンをはじめとする3人の女性がとりあげられています。
竜女のアイリアン、自分が何者か知らないテハヌー、カルガド帝国の王女セセラク。
多島海のハブナー王国でははみ出し者であるこの3人の女性は、人々に恐れられる存在です。
彼らは何者なのか?
アイリアンは、女人禁制のロークの魔法学院にやってきて、邪なる男を滅ぼした竜の女。
テハヌーは、最古の竜を呼び、竜によって娘と呼ばれた、顔の半分が焼かれた娘。
セセラクは、言葉が通じず、魔法使いのいない異文化の国から来た威厳ある女。

レバンネン王も、ロークの魔法使いの長達も、彼らの存在をどう受け入れていいのかわかりません。
彼らの知っていた世界が崩壊するのでは、と恐れているからです。
ロークの魔法学院は、元々女性達の集団から始まったのに、いつのまにか女人禁制の地となっていました。
女性排除を決めた魔法使いの男が、単なる女性嫌いだったのか、それとも力を独占したいという思っていたのかはわかりません。
しかし、ロークの魔法使い達がその慣習を掟と掲げて女性を排除し続けてきたのは、女性が本能的に“生命の流れ”を知っていることを恐れたからなのかも。
女を受け入れぬこと、独身であること。ローク島の掟は求道者の掟です。
しかし、それは正しいのでしょうか?
愛を知らぬままに得た魔法の力とは、実はとても歪んだものなのでは?
決してまっとうな力と呼べる物ではないのでは?

ゲド戦記シリーズの最初の3作は、精神の闇と深さを描いた心打たれる冒険譚として評価されてきました。
人の心の中の闇、社会が抑圧してきた闇。
ならば、男性だけが権力を握っている社会にも歪みと闇があるだろう。
そして、竜と魔法の意味とは・・・・?

作者が10数年ぶりに続編を書くきっかけとなったのは、ゆっくり心の中に育っていった疑問ではないかと思います。
今更言うまでもなく、作者ル・グゥインは性別を大きなテーマとしたSF作品を書いている作家です。「闇の左手」は男女の性のない異星人と地球人との物語です。
大賢者となった魔法使いゲドは、既存意識に囚われた人物ではありません。
曇り無く世界の真実を見抜くことができるからこそ、世界の歪みを見分け、闇を正すことができるのです。
ゲドは、性別や年齢や地位や権力にはこだわらず世界を見てきました。
だからこそ、全ての力を失い、地位も権力も投げ捨てて、故郷の島へ帰ってもなお、真実を知ることができたのです。
全てを失った彼が得たもの、それは妻と娘でした。

かつてゲド自身がアチュアンの墓所から連れ出したカルガド人の巫女、腕輪のテナー。
若き日のゲドは、自分を慕う彼女を故郷の師匠の元に送り、自分はそのままロークへ留まり魔法使いとして暮らし続けました。
魔法使いは結婚しない・してはならないというのが掟だったからです。
その数十年の間にテナーは、肌の色の違う異国にもなじみ、地元の農夫と結婚して農婦として暮らしていました。
全てを失って故郷に帰ったゲドを待っていたのは、すでに夫と死別し子どもも独立したテナー。
老境にさしかかった二人は、ようやく共に暮らし始めます。
テナーは、ゲドが前夫と違い、女性を低く見ていないということに驚きます。
そして、テルーことテハヌーとの出会い。
盗賊に襲われた惨劇の跡で、二人は子どもを拾います。かろうじて息のあった幼児は、顔火に投げ入れられて顔半分と右手が焼けただれ、しかも性的虐待までされていました。
しかし、貶められ、同情を受けるしかないような子どもが、魔法使いしか知らないはずの「太古の言葉」を話し、竜を呼んだのです。
それは、かつてのゲドと匹敵する能力なのです。

そもそも太古の言葉とは何なのか?
魔法使いしか知らないのではなかったのか?
しかもテハヌーは女である。魔法使いになれる男ではない。
(しかも、魔法使いの不犯の掟さえも破っている)
なのになぜ……?

その疑問の回答は、3人の女達からもたらされます。
「太古の言葉」とはそもそも魔法使いのものではなかったということ。もちろん、男性のものでもない。
現在の多島海世界の常識が、すべてひっくり返ってしまいます。

かつて人と竜は同じものであった。今までの作品中で幾度と無く語られてきた言葉です。
そして、太古の言葉は竜と同じものである。
この言葉の意味を深くつきつめることから、外伝「トンボ」や「アースシーの風」という作品が生まれたのでしょう。

本来同じものであった人と竜は、なぜ、どこが違ってしまったのか?
なぜ竜の言葉は太古の言葉、人は太古の言葉をほとんど失ってしまったのか?

その回答が本作の後半で書かれます。

人間が太古の言葉を使うことは、太古の分断(ヴェダーナン)をいう契約を越えた行為でした。
人は創造と富を、竜は自由と言葉を。
人の領分である現世の利益を所有しながら、竜の領分である魔法に踏み込む行為は、魔法使いにとっても、竜にとっても、世界にとっても致命的な問題を引き起こしていたのです。
石垣、という言葉で象徴される生と死の境界は崩れ始めていたのです。
本当の死とは、循環する生命の流れに乗ること。
本当の死がなければ、本当の生もない。
矛盾はエネルギーをため込み、死者の叫びが歪んだ世界の変革を訴えます。
ハンノキと死んだ最愛の妻との絆が、この歪みをただすための雪崩の導火線となったのです。まるでベルリンの壁が人々の叫びの前に、自然に崩れ去ってしまったように。

今回はほとんど傍観者であるゲド。しかし、彼の問いは最も鋭く謎を解く手がかりとなってゆきます。
ゲドの代わりに他の人物と係わって糸を織りなしてゆくテナー。彼女はカルガド人でありながら多島海で暮らす、二つの自分を持っています。
変革をせまる常識の外の女達、アイリアン、セセラク、テハヌー。
死んだ最愛の妻に呼ばれ、変革の導火線となるハンノキ。

王レバンネンや、ロークの魔法使い達、つまり男達が世界の常識外の女達を受け入れてゆく行程は、崩壊しはじめた世界の歪みを正す行程だったのです。
セセラクの存在に苛立ち、見たくもなかったレバンネンが、彼女の勇気、美しさ、価値を知り、対等の存在であり伴侶として受け入れてゆく姿が、この物語を象徴しています。
アズバーが、ロークの長の中ではもっとも素直に事態を受け入れることができたのは、彼が一般社会で暮らしていたカルガド人で、人を愛する事の意味を知っていたから。
前作の短編「トンボ」で、竜と化して去ったアイリアンとささやかな心の交流を持ったアズバー。
二人の想いは、ロークの枠組みの中では決して成就するものではありませんでした。

ハンノキは、最愛の妻とともに生命の流れの中へ去って再生することを選びました。
石垣は無くなり、肉体を失った魂は輪廻転生の生命の流れの中に戻ってゆく。
人と竜は再び分かたれ、世界は全き姿に戻ってゆく。

再度の分断は、太古の言葉の喪失を意味するのでしょう。
竜と人の世界は分かたれ、次第に出会うこともなくなるでしょう。
ロークの魔法学院においても、研究すべき魔法の大半は失われ、竜と同じ言葉を使う魔法使いはいなくなるのでしょう。
太古の言葉は消失し、残るのは古き大地の魔法だけになるでしょう。
それは耐えられない消失なのか?
いいえ、きっと、新しい価値観と文化が創られる、新しい世界が始まる時なのです。
魔法を失っても、創造は失われません。男も女もともに敬意を払い、異文化をも受け入れることができる。
王レバンネンがカルガド帝国の王女セセラクと手をとって開いて行く、新しい国の元で。

これは単純なファンタジー冒険譚ではありません。
前書きにもあるように、日常価値観に疑念をもたらし、新しい世界観に目を開いてゆくための、心がざわざわする物語なのです。

外伝の「湿原で」における、大賢人ゲドのふるまいが好きです。
彼の暖かさ、気取らなさ、真実を見ぬく目は、年老いても、力を失っても、どんな世界にあっても真実の光でしょう。
最後に第一作の冒頭にある古代詩を掲げて、この作品を読ませてくれた作者と訳者に、心からの敬意を捧げます。

光は闇に
闇は光のなかにこそあるものなれ
天高く飛翔せる鷹の
虚空にこそ輝けるごとくに