周の字(MAOさん筆)

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第1日目 周王の都から 6月14日木曜日


移動日程
  (羽田→) 関西空港 → 西安 → 寝台列車にて太原へ

主な観光地  豊京・鎬京遺跡

関空より西安へ
中国に着いたとわかるのは、飛行機の機体からタラップに足をかけた瞬間である。
 機内の安定した空気に変わって、熱気をはらんだ大気がぶわっと全身を包み込む。
乾いた熱風と、コンクリートの機場に照り返された強烈な日差しの中でタラップを降りながら、中国へ着たのだと実感する。やっと着いた、やっと!


日本を発ったのは、日本時間で午前10時49分。関西国際空港のある大阪は、梅雨の典型のようなどしゃ降りだった。
時差の1時間を含めて実質3時間40分の旅の途中、中国は資料の中の国だった。
そして、中国時間で13時30分JAS237便が降下に入ったとき、目に入ったのは一面に区分された黄土色の大地だった。
なんとなく、一面緑の大地を想像していた私は、意表を付かれた思いだった。
西安に来るのは12年ぶり、2度目だが、周囲の景色のことははっきり記憶していない。
なにせ、現在の西安空港が11年前に作られたもので、以前の空港とは違うということすらわかっていなかったのだ。


初めて来た空港なのに、どこか見覚えのある光景だった。機体の周りには、若い中国人の作業員達がわらわらと集まって来る。
彼らの仕事意識と物珍しげな視線の見守る中、乗客は無秩序にターミナルへの移動バスに乗り込む。
大地に立ち、西安の乾いた大気を胸に吸い込むと、期待感で全身が弾むようだった。
旅が始まる瞬間の、この高揚感!全身好奇心の塊で出来ているような私にとって、これこそ我が人生!と思う瞬間だ。


ツアーメンバー達と集団ビザの番号順に並んで、ターミナルビルに入ったとたん、「熱情服務」の看板に圧倒される。
しかも、その下には「WARM SERVICE」と英語表記。なんとなく英訳に首をひねりながら、入国審査へ進む。まだツアーメンバーの顔と名前を覚えてない段階では、添乗員さんが唯一の頼りである。
無事に集合し、スーツケースを順番に並べ、添乗員さんに従って歩きだそうとすると、名前を呼ばれていることに気付いた。
「○○さん、いますか?」 (私、何かしたっけ?それとも何かあった?) 慌てて返事をすると、そこには日本人とみまごうほど日本語の流暢な、背の高いひょろ長いお兄さんがいて、私のスーツケースを指さした。彼曰く、このスーツケース(キャンバス地)の外ポケットの中身は取っておかないと無くなってしまう。
外ポケットには、ポケットティッシュの束と、キャラメル一箱、あとはガイドブックが入っているだけだったが、彼の心配そうなちょっと困ったような表情に気圧され、勧めに従って、ガイドブックとポケットティッシュを掴めるだけ掴み取って無理矢理リュックに押し込んだ。
その彼が、今回の我々の旅の設計者にしておそらく事実上の責任者、最高のスルーガイドであるGさんだとは、まだ知らなかったのである。そして一行は、用意されたバスに乗り込み、今回の旅は始まった・・・。


周王の都
バスに乗り込むとすぐに、今回のお世話人からの挨拶があった。まずは西安ガイドのLさん。彼女は中国では珍しい姓であり、匈奴の一族の血を引くという。
大変笑顔の素敵な女性である。 続いて、全行程に付きそうスルーガイドのGさん(中国語の発音ではNさん)。 彼も中国では比較的珍しい姓であり、先祖は甘粛省あたりの出身らしいとのことだった。
 彼は今回の旅にあたり、健康管理に気を付けて欲しいと説明する。多湿に慣れている日本人にとって、乾燥した大陸内部の気候では、まず、喉をやられる。
そしてそこから風邪を引く。たとえ夏であっても、絶えず喉をうるおす水か飴が必需品である。
Lさん曰く、水の少ない陝西省の人間は、一生のうち3度しか風呂に入らないのが普通だったそうだ。
また、このあたりは麺が主食なのだが、この地方の女性は、他地方へ嫁に行きたがらないとのこと。それは、他地方で、1日に1回も麺を食べられないと我慢できなくなるからなのだと・・・。
  二人の説明を聞いているうちに、バスは西安市内へ。
そして、市の中央にそびえ立つシンボル・鐘楼を行き過ぎて、城門を抜け、反対側の西の郊外へ向かった。 バスで40〜50分も走っただろうか、 Gさんから、今から渡る川がホウ(サンズイに豊の字)河だ、との説明があった。そしてまもなく、バスは目的地に到着した。


そこにあったのは、「豊鎬遺址」(写真1)の石碑と、「西周豊鎬遺址」と大きくかかれた説明の看板(写真2)。それが、最初の観光地、周の豊鎬遺址であった。
通りすがりの自転車老人があんたらなんじゃ?って顔で眺める中、中国簡体字でかかれた看板を読もうとするみんな。Gさんの説明が始まる。
「ここは、周の文王・武王が、西方から都を移した場所です。いま、ここ、この場所がそうです!」
どよめく一同。ああ、今立っているこの場所が確かに周の王宮のあった場所なのだ。 武王がここに立っていたのだ。戦乱と破壊の時を越え、地上の風景が変わっても大地は変わることはない。
平和な大地には、立派な街路樹が強い陽光の下で濃い緑の木陰を作り、美しく揺れている。
「ホウ河は、今はサンズイが取れて、豊河と呼ばれています。『豊』は、今の中国簡体字では、三という字に縦一を引いた字です。
この河の両岸に、『豊京』と『鎬京』が隣接してあったと言われており、両方合わせて『豊鎬遺址』と呼ばれています。
ここは、今回の小説の中には直接出てこないのですが、今回の旅は、春秋戦国時代の幕開けとなった周がここから始まった、ということで始めたいと思います。」
では、中に入りましょう、との言葉で、私たちは門の中に入った。ここは、「張家坡西周車馬坑」と呼ばれる西周時代の遺跡である。
Gさんが、管理棟のような建物の一室の扉を叩いて声をかけると、職員らしい私服のお姉さんがでかい鍵を持って出てきた。
二人の後にぴったりついて行き、厳重に鍵のかかった建物を開場してもらう。強烈な日差しの外から建物内の暗がりに入ると、何も見えなくなった。
Gさん曰く、「ここは、電気の配線が壊れててつかないです。目が慣れて見えるようになったら気を付けて階段を降りて下さい。」
数メートル下に向かう階段を降りてゆくと、低くほり抜かれた地面が見えた。そこには、二千数百年前の周の車馬が半分土から顔を出していた。


馬車を見た!
立った車輪がついたままの馬車が2台あった。まず、倒れた馬車本体の上に肩甲骨が散らばっているのが目についた。
もちろん、馬の骨である。よく見ると目の部分が抜けた頭蓋骨を始め、あちこちの骨もある(つい骨の名前など考えてしまうのが職業柄の悪い癖・・・)。
Gさんが、職員さんに確認をとりながら解説を始める。(ちなみにここは撮影禁止だった!)
「秦の兵馬俑坑をご覧になった方もあると思いますが、これは西周のものなので、更に数百年前の物で、 中国ではもっとも古い現存する車馬の遺跡です。・・・・。」以下は、彼の解説。
入り口から奥にあるのが2頭立ての馬車で、手前側にあるのが4頭立ての馬車である。 2頭立ての方は、礼車、つまり実用ではない儀礼用である。
馬の首に貝を連ねた装飾品がある。 二千個の貝が使われているとのことで、当時の常識から考えてもずば抜けた身分を誇示したものである。
4頭立ての方は戦闘用で、馬の頭に青銅製の兜がかぶせられていたものがそのまま残っている。
そして、4頭立ての足下の部分に突き出たもの、それは御者の大腿骨である、という。殉死した御者がそのまま埋められていたのだという・・・。
“死者の上に築き上げられた城壁”という言葉が実感を持って感じられる。
「士会が乗っていたのも、こういう馬車です。想像してみてください。」
Gさんの言葉に、みんなの脳裏に浮かんだのは、士会が重耳の車右になった姿だろうか。
一般公開のされていない宝物を目にした私たちは興奮し、来て良かったな〜これだけでもこのツアーに来て良かったよ〜と、早くも感嘆の声がわき上がったのだった。


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