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晋の字、金文(MAOさん筆)
第2日目 黄砂の国〜晋   6月15日(金)

移動日程     太原 → 晋祠 → 平遥 → 臨汾(泊)  

主な観光地  
 山西省博物館、晋祠、平遥古城、緜上の山(介山)
・・・かすかに。
  

主な入手資料 山西省博物館の小冊子 「河山之精英〜晋陝豫古代玉器精華展」(20元、カラー20P、97年資料)
             晋祠のガイドブック 
「晋祠セイ(月に生の字)境」(10元、カラー40P)
          
   山西省の旅行ガイド 
「山西旅游地図冊」(16元、カラー99P)


始まりの太原

  旅行の2日目は、寝台列車のリズミカルな振動のなかで目が覚めた。
上段からは窓が見えないが、下段ではすでに年長の二人がカーテンの奥に顔を出して外の景色を見ている。
私も下段に降り、身支度をを済ませて、車窓にひろがる朝の風景を眺めるのに加わった。
  風景はいつのまにか、すっかり変わっている。列車は夜の間に陝西省から山西省に入っていた。
山西省、略称「」は、黄砂の煙る、黄色い大地のくにである。(写真7)
降雨量が少ないため、水稲はほとんど作れない。小麦を主作物とするのは西安と同じである。
西安が周囲を峻険な山地で囲まれていたのに対し、こちらは、汾水に沿ってなだらかで、平坦な黄土高原が見渡す限り広がっている。
 列車の窓からは、黄金色に輝く刈り取り直前の小麦畑や、黒焦げの切り株の残る畑、青々した野菜畑、
そしてひたすら茶色い荒れ地が続き、ときおり、古家が建ち並ぶ昔ながらの集落が見える。
 黄土色の日干し(又は焼き)煉瓦で作られた家は、街壁の土塀(版築作り?)と、ほこりっぱい地面と、区別がつかないほど、乾いた黄土色一色で統一されている。
洗濯物やバケツなどの生活用品さえ、黄砂色に染まってみえる。
新しい集落がアスファルトと建材で色のメリハリがはっきりしているのと対照的である。
なんとなく異国風というか西方風の雰囲気のあった西安と比べると、山西省は、黄色い荒れ地の多い、北方の厳しい土地なのだと感じる。
実際、現在の山西省は、中国で最も貧しい省の一つなのだという。
かつての晋、、周から春秋戦国時代にかけてのこのあたりは、もっと緑に包まれた豊かな土地だったのだろうか?
だが、この砂ぼこり舞う黄土の大地と、晋国の誇りは昔から変わっていないのにちがいない・・・

列車は8時15分、無事に省都・太原駅に到着した。
太原は、現在の山西省の省都である。
そして、周の武王の三男「唐叔虞」が兄の成王より、封じられた唐の地だと言われている。唐は次の王の次代に「晋」と改名された。
太原こそ晋国発祥の地、と太原人は今でも誇りに思っており、開祖「唐叔虞」を祀った晋祠は、太原でもっとも有名な場所であり観光地である。
なんと言っても、現在の山西省の略称が「晋」であり、走っている車はすべて「晋ナンバー」なのだ!

  私達が降りるのを待ちかねたように、寝台車両は切り離された。これからこの車両は西安へトンボ帰りするという。
省都だけあって駅は大きく立派で、一歩外に出ると大通りをひっきりなしに車が走っている。どこにでもある、灰色に煙る都会の風景である。
通りを横切って、大型バス用駐車場へ向かう。ここで、山西省のガイドさんとバスが私達を待っている。
駐車場の入り口では、茶色のゆでたまごを鍋に入れ売っているおばさんがいた。運転手さんが買うのだろうか?(試しに一つ買ってみたかった)
全員バスに乗り込むと、山西省ガイドのOさんから挨拶があった。
 Oさんは、中肉中背で声の大きい、大変個性的な男性である。
今回の旅程でGさんを除く現地ガイドさんの中では、もっとも印象に残った方である。
彼は負けず嫌いで誇り高く、口癖は「我が山西省は〜!」、ベテランのガイドさんで、いろいろな体験談を話してくれた。
彼の話してくれた体験談のいくつかは、今でも忘れられない。
ともかく、私達は「迎賓飯店」というかつて毛沢東も泊まったという高級ホテルへ行って朝食を取った。
ホテルのロビーには、山西省の大きな観光地図が置いてあり(写真8)、更に一人づつ無料で観光マップをもらい、再びバスに乗ったのだった。

倉庫の宝物〜山西省博物館
 太原の空はどんよりと曇っている。黄砂のためだけでなく、大気汚染によるものだという。
太原は、工業都市としても有名で、大気汚染は中国一なのだと、Oさんが残念そうに言う。
気候は乾燥、気温39℃から−14℃までと、なかなか厳しいものがある。晋といえば北国のイメージが強い。
太古の時代は今よりずっと暖かかったと言われているが、(黄河すぐ南の新鄭には象がいたぐらいだ)、春秋時代の気候はどうだったのだろうか気になった。
 バスは、すぐに市内の山西省博物館に着いた。

 そこは、一見公園のようだった。フェンスで囲われた入り口の前に、物売りがたむろしているのを見なければ、これが、「省」の博物館とは思えないたたずまいである。
実は、山西省では新しい博物館を建設する資金が無く、これは孔子廟の建物を借りた(と聞いた)仮住まいの博物館なのだという。(写真9)
しかし、このみすぼらしい不似合いな建物達の中では、中国でも有数の宝物が大切に保管されているのだ。
点在するの建物の間を縫って、案内されたのは、どうみてもお客の立ち入らない裏庭だった。
盆栽や観葉植物のしなびたような鉢や、壊れた家具などが転がっているぬかるんだ裏庭を歩くと、学校の校舎のような3階建ての建物があった。
入り口の扉には、「厳禁入内」という大きな文字が踊り、中国語のさほどわからない私達でさえ足を踏み入れるのをためらったのだった。(写真10)

 立入禁止の扉の内側は、学校の校舎のような建物があった。
木張りの床に、年代物のセントラルヒーターが廊下に立ち並んでいる様子は、さながら30年前の日本の小学校のようだった。
我らがガイド氏は、教室もどきの部屋をノックしながらに首を突っ込む。(ちなみに扉は閉まっていなかった)
ガイドOさんに「上へ上がって下さい!」と言われ、階段を上った私達だが、2階も同じように教室もどきの部屋が並んでいるばかり。
いったいどこへ行けばいいのか?
突き当たりの部屋は執務室のようだし、真ん中の部屋はがらんとした広間だし・・・。
と、うろうろしている間にOさんがやってきて、広間の部屋へ入るよう指示された。
中には、古びた大きな会議用の木机と少数の衝立や机があるだけで、展示物など何もない。
ここでいったい何をするというのか??

思えば、この時が旅行の全行程の中でも、最も不思議な瞬間だった。
それが明らかになったのは、白衣を着た女性研究員達が、木箱を大切そうに抱えて入ってきた瞬間である。
あれよあれよという間に、彼女らは、木箱を大机に並べてゆく。
も、もしかして、ここへ持ってきて見せてくれるの〜〜〜?!
驚きと感激のざわめきがおこり、目くばせしあう私達一行!
すると、ガイドGさんが、いかめしい顔つきでスキンヘッド、黒服の中年男性とともに入ってきて、大机の上座に着いた。
「この方が、この山西省博物館の管理室長さんです。ご挨拶と説明をしていただきます。」
皆の物見高い視線の中、管理室長は威厳を持って言葉のわからない我々に蕩々と説明を始めた。
必死で聞いても私の語学力で聞き取れるのは最初の挨拶と数字、後は簡単な単語程度のみ。
しかし、我らがGさんは話の最中でスラスラとメモをとり、話が一区切りすると訳して説明をしてくれた。
「今からお見せするのは、候馬から出土した、晋国の盟書です。「」と呼ばれています。
「圭」というのは、祭祀用と盟約用の2種類があり、石製と玉製の物がありますが、ここにあるのは、盟約用で石製の物です。
文字は篆書の形に近いものがあって朱砂で書かれており、発掘された約5000個のうち約600個が読める形で残っていますが、
どれがどの事件の盟書なのか特定することはできません。
候馬で発掘された盟書のうち三分の二が晋の中盤期のものと言われています。今回は見ませんが、温県でも晋の盟書が発掘されています。」 


 一通りの説明が終わり、私達は、おそるおそる開かれた木箱の中の盟書を見た。(写真11)
 それは、大変小さな、円形や刀型や様々な形の石の板で、朱泥でみっしりと小さな文字が書かれている。
虫メガネが必要なくらい小さな文字で、形も今の漢字とは違い、全く読みとることはできない。
手を触れないよう、息を吹きかけないよう、と言われたので、一人づつ木箱の前に張り付いて、頭を寄せてまじまじと眺めた。
こ、これが晋時代の、本物の遺物なのか〜〜〜〜!約2500年前の、本物の!!
感激の中、管理棟の職員さんが、何点かの図録を販売し始めた。う、きれい・・・が、高い!この分厚いの、280元?
だが、昨夜のお土産の購入のため、私の財布にはもうそんなに元は残っていなかった・・・。
結局私は20元の安い図録を1冊買い、明日からは図録を買うために両替元を温存しておくことを心に誓ったのだった。

倉庫棟を出ると、もう時間がなく、「商」時代の青銅器がごろごろ陳列している本館(といっても孔子廟)はほとんど見ることができなかった。
中国でも有数の宝物が、無造作に借り物の建物に陳列されているのはいかにももったいなく、早く、立派な建物が建設されることを願って博物館を後にした。

晋祠新緑

 次の目的地である晋祠は、太原の南西にある。市内を真ん中に貫く汾水を渡り、バスで郊外へ向かう。(写真13)
この辺りは山西省には珍しい水田がある。
ここでは「晋祠米」と呼ばれる大変美味しい米がとれるのだが、高価で庶民の口には入らないのだそうだ。
晋祠は、太原でもっとも有名な観光地である。その敷地面積は膨大で、比較的古い時代に作られた前半部と、後代(明・清時代のことらしい)に作られた後半部に別れている。
今回我々が見学するのは、もちろん前半部である。
駐車場から10分ほど歩いて晋祠の中へ・・・。

晋祠の中は木々の緑が美しい。初夏の爽やかな光、上空を飛び交う燕たち。
新緑の美しい公園は、歴史に興味がなくとも来る価値はあるだろう。
ここは、地元山西省のガイド・Oさんの独断場である。私達は、入ってすぐの案内図を確認し(写真14)、ひときわ豪華な建物の前にやって来た。
難老泉のそば、聖母殿の真正面にあるこの建物は、「水鏡台」と呼ばれ、劇を上演する舞台だったそうである。
聖母殿の正面にあるのは、聖母「王姜(邑姜)」像に見せるためであり、また、京劇のごとく(昔だから京劇とは言わない)顔に隈取りをした役者が難老泉に顔を映し、
出来映えをすぐに確かめた、から水鏡台と呼ばれるようになったのだという。
そして、その側に「晋祠三絶」(=晋祠でもっともすぐれた3つの物の意)の1つと呼ばれる「難老泉」があった。ここは、どんな干魃の時にも涸れたことがないという泉である。
そして、難老泉から流れている晋水の脇には碑が立っている。
「晋水」、これは、知氏が、韓氏、魏氏とともに趙氏を水攻めにしたその流れである(写真15)
そう、つまり、春秋時代が戦国時代へと変わる境目、「晋」が「魏」「趙」「韓」の三国に分裂したあの事件、それに使われたのがこの川の水なのだという・・・。
(この事件に関しては、宮城谷氏の短編集「孟夏の太陽」に収録されている「隼の城」にも書かれています。)

また、この水は、昔から洪水を起こすことも珍しくなく、水難を治めるために建てられた人型の祈願像(鉄人)がある。
像は全部で4体で、うち唯一破損修復されずに残っているもの(写真16)は、唐代に少林寺から寄贈されたものなのだという。
それから、「聖母殿」へ向かう。ここは、周の武王の婦(正妻)であり、晋の開祖・唐叔虞の母親である王姜(邑姜)を祀っている。
もちろん建物は当時のものではない。現在の建物は北宋時代のものらしいが、この晋祠という場所自体が、唐叔虞に心酔していた唐の太宗・李世民が建てたとの噂もある。
唐という国名を、ここから取ったのだから、その入れ込み具合は大変なものだと言えると思う。
聖母殿の中で聖母・王姜(邑姜)さんに挨拶したが、実はここの目玉はこれだけではなく、その周囲を囲む「宋塑侍女像」である。
これも晋祠三絶の1つであり、42体の像があるが、そのうち5体が宦官で、うち4体が男服を着た女官で、33体が侍女だという。
一体一体どれも年齢も、種族も、服装も、持っているものも、ポーズも、表情も違う。確かに貴重な物だと思う。
ガイドのOさんは、これは「私はどうして掃除用具なんか持ってるのかと怒ってる」これは「西域から来た人」などなど細かく説明してくれた。
(この中では写真撮影禁止だったので、ガイドブックの表紙で侍女像を確認して下さい(写真12)。)

その後、晋の開祖・唐叔虞像を見学。ここも写真撮影は禁止で、大きな像だったことぐらいしか覚えていない。
庭に出て、残る三絶のもう1つ、「周柏」を見た(写真17)。樹齢3000年と言われる柏の巨木であるが、ガイドのOさん曰く、誰も確かめたわけではないから本当のところはわかりません・・・とのこと。
ただ詩に詠われたこともあり、千年を越えているのはまちがいないらしく、いまだに青々とした葉を繁らせているのは事実である。
その他にも、唐の太宗・李世民の真筆の石碑(唐碑)のある堂もあったのだが、普段は立入禁止とのことであった(写真18)
私個人的には、大変行ってみたかったのだが・・・。
そしておなじみの売店にて休憩し、カラーパンフレットを2冊購入した。
カラー印刷の上質紙で装丁もしっかりしており、中国のパンフレット事情も大変良くなったな〜と感じた。
そんなこんなで午前中の予定は終了。
次の目的地である平壌へ向け、バスが出発したのは、すでに12時半だった・・・。

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