第 3日目(2)
黄河を渡り、河南省に入ったとたん、風景は一転した。
農村が散らばる山岳地帯から、複線道路が交差する都市の風景へ。
バスは広々とした大通りに入り、周囲にはビルが並び、中央分離帯の花壇には花が植えられている。
「河南省はきれいでしょう?」と苦笑しながら言ったのは、山西省ガイドのOさんだった。
省による違いも確かにあるが、ここ・三門峡市は、交通の要所で、比較的大きな町らしい。
まず黄河を北へ渡る大橋があり、東西には中原を突っ走る幹線道路が走り、同じく中原を抜ける鉄道路も通っている。
なにしろ私達は、今夜ここから南へ向かう列車に乗ることになっているのだ。
この東西ラインというのは、黄河沿いに、開封〜鄭州〜洛陽〜西安へと向かう、まさに中原の主要街道である。
(現在は高速道路が走っています)
交通の要所であるここに、カク国があったというのはうなずける。
バスは、いったんトイレ休憩のために鴻志大酒店という市内のホテルへ。
ここで荷物をいったん下ろし、ここで地元・三門峡市のガイドであるSさん(女性)が乗りこんで来られたが、まだ挨拶はなし。
それからバスは、再び黄河の岸辺近くまで逆戻りする。
黄河に面した32.4万m2の川岸の広大な敷地が、次の目的地だった。
これが「カク国博物館」http://www.guostate.com/book/main_3.htm である。
この博物館は、川岸に発掘された、カク国の遺跡の上に作られている。
発掘現場を覆うように作られた市立の博物館は、1998年に着工して、2001年10月に開館したばかりの真新しい施設だ。
長時間山道を揺られて来た私達は、門の前で下りて、美しい正面玄関に歓声をあげた。
正面の門壁は、春秋時代の雰囲気を再現した、壮大な馬車の姿が彫刻されている。
瓦の彫刻のようにとても雰囲気があって、とても見事なものだ。(写真40、42)
しかし、門壁の立派さに比べると、建物が少し小さく感じるのだけど…。
「実は、ここはまだ建設している途中なんです。市もお金がないので、少しづつ作っているのです。」
ガイドさんの説明に納得。でも、市立とはいえ、山西省の省立博物館よりもはるかに立派である。
カクは、黄河の沿岸にあった国で、「唇滅べば歯寒し」と例えられた「唇」の方にあたる。
晋で驪姫の乱があった年、カクは、虞を通過して黄河を南下してきた晋の軍に滅ぼされた。私達のバスは、その進軍の道を辿ってきたのだ。
この"カク国遺跡では1990年代に入ってから、君主と夫人(梁姫)の墓が、未盗掘状態で発見された。
おびただしい副葬品やミイラが出土して、中国国内では大きな話題になったそうだ。
馬車の跡(車馬坑)や、数々の青銅器類、玉器に、楽器、衣類などである。
君主である国君の墓は、地下10メートルの深さから発見された。
もっと地表近くには貴族の墓があり、君主の墓が一番深い場所にあったのだそうで、それで盗掘から免れることになった。
盗掘の跡は、なんと地下9.7メートルの深さまで掘られていたそうだ。
あと墓まで30センチ…という地点で、盗人は掘るのを諦めたらしい。
そこまで掘る盗人もたいしたものだが、君主を埋葬した古代人の方が、一枚上手だった、ということだろう。
馬車と馬の遺物(車馬坑)は西安の鎬京でも見たが、最新鋭の技術が使われたこの博物館の展示は、比べものにならないぐらい素晴らしいものである。。
中国の技術が日本より劣っていたのは、古い時代に作られた建物の話だ。
現代は、お金さえあれば、世界の最新技術を駆使した施設を作ることができるし、現にこの博物館はできたてほやほや。
樹脂製の春秋時代の地図が壁に展示されており、湾曲した柱は、遺跡にちなんだ美しいデザインとなっている。
車馬抗は、そのままで床の中に取り囲まれ、観光客が四方からのぞき込めるようになっている。
10メートルの地下の墓も、まさに10メートル上から、その深さを実感することができる。
もちろん、説明のプレートも、当時の生活を再現するために描かれた壁画も、立派なものだ。
中国が国家施策として、観光資源の整備にお金をかけているのが、ここでもはっきりわかる。
地元ガイドのSさんの手慣れた説明をうけながら回っていると、壁面の巨大な地図の前で立ち止まったGさんが、春秋時代のカク国と晋国の流れを説明してくれた。
当時の流れへの理解を深めた私達は、改めてGさんの勉強された知識量と理解度に感激するばかり!
順路も終盤頃になると、観光客の通る通路は、まだ発掘作業をしている土間を囲んで続いていた。
その中では、サンダルを履いた若い女性が、刷毛を使って作業を続けていた。
まだ発掘と建設が続いているというのは本当だったのだ。しかも、それを惜しげもなく観光の一部にしている。
現在発掘中の遺物は、現在建設中の次の建物に展示される予定だそうだ。
博物館の内部は撮影禁止で、ぜひ図録が欲しかったのだが、残念なことにまだ作られていないとのこと。
販売されていたのは、1枚折りのカラーリーフレット(2.5元)だけで、仲間内からは、「正面玄関にお金をかけすぎ」「先に図録作ってくれればいいのに」などの声も…。
出るにあたって、建物の外観だけは撮影可能だということで、何とかそれだけ撮影してきた。(写真41)
三門峡市は、パックの中国旅行では、なかなか行く機会がないかもしれませんが、もし行かれることがあれば、ぜひカク国博物館に行くことをお勧めします。
南への寝台列車
博物館の見学が終わり、バスは鴻志大酒店に戻って夕食となった。
それから、割り当てられた部屋で小休止の時間。寝台列車に乗る前に、シャワーを浴びるというわけだ。
スーツケースとも、しばらくのお別れ。スーツケースは翌日泊まる武漢ではなく、翌々日の夜に泊まる鄭州に向かうらしい…。
知らなかった、とちょっと一同ショック〜〜。
3日目の夜ともなると、旅のメンバーもそろそろ疲れが出始める頃である。
長期の旅行は、私の場合、4日目に体調がダウンすることが多い。
最初の3日は多少無理しても睡眠不足でも食べ過ぎても、大丈夫。
でも4日目は一気につけがきて一時的にどよ〜〜〜んとした状態になり、5日目にはまた復活、というのがいつものパターン。
胃腸の方も、油の多い中華料理の食べ過ぎにそろそろ調子がおかしくなりかけており、そのせいでつい文句やワガママが出やすくなってしまうのでしょうね。
一晩スーツケースと会えなくとも、困り果てるほどではないのだが…。
それでも、小休止を終えた一同は、晋ナンバーのバスに乗り、三門峡駅へ。
いよいよ晋ナンバーのバスとも、熱血なガイドのOさんや、少しだけ案内してもらったSさんともお別れである。
Sさん、なかなか上手い日本語で「星影のワルツ」を歌ってくださった。
広い駅のホームでは、地元の子ども達が、校庭のように走り回っている。夜でも明るい駅は、かっこうの遊び場らしい。
駅前は、夜店が軒を並べ、踊る人々がおり、お祭りのように賑やかである。
なにか祭りでもあるのかと思ったが、駅前というのはいつもこんなものらしい。
個人家庭では、まだ冷房が一般化してないため、人々はまさしく“夕涼み”に町に繰り出すのだそうだ。
日本とはパワーが違うなぁ・・・と妙なところで感心してしまった。
ガイドのお二人とわかれ、私たち一行はホーム内へ。外と違ってあまりの暗さにびっくりする。足下も見えないって危ないんでは…。
いよいよ、西安発、宜昌行きの夜行列車が到着。
私達は、三門峡市21:28発で、荊門に着くのが翌朝7:50着の予定。ほぼまっすぐに南下するルートである。
寝台列車は2回目、しかも4人用コンパートメントは前回と同じメンバーとあって、今回は最初から和気藹々とした雰囲気。
今回もお茶を持ってきて回ってきてくれる我らがスルーガイドのGさん。
彼のコンパートメントに集まってお酒を飲もう、と年配の男性方が声かけしておられたので、私も同室の方と出かけた。
日本から持ってきたウイスキーを紙コップにつぎ、わいわいとすっかり宴会気分である。
気配りのGさんも、今夜は車内で泊まるだけとあって少し気分が楽だったのではないだろうか。
この時、初めて聞いたのだが、Gさんは、日本語の「沙中の回廊」を自力で読まれたとのこと。
もちろん、このツアー企画のためであるが、書かれている士会の生き様に強く惹かれたとのこと。
当時の政権に合わなくても信念をもって行動する様は、毛沢東のようだ、と評しておられました。
私にとってはとても新鮮な意見でしたが、考えてみると、果たして現代の日本に、士会の生き様と比べられるような政治家がいるだろうか?
日本でそういう人を探そうと思えば、幕末あたりの人物になるのだろうか。
また、Gさんは、このツアーメンバーには年配でとても歴史の勉強をした詳しい人が多いので、とても緊張する、とも話しておられた。
歴史の話あり、雑談あり、裏話を聞いたり、楽しい車中の夜はふけてゆく。
そして、一同適当に解散し、明日の朝を楽しみに、和やかな夜行列車での睡眠に入ったのだった。