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カクの字、金文(MAOさん筆)
  

移動日程    臨汾 → 候馬 → 三門峡 →寝台列車(泊)  

主な観光地  
山西省考古研究所・候馬分室、候馬の晋遺跡、カク国博物館
 
 
主な入手資料  カク国博物館リーフレット(2.5元、カラー)
          

3つの遺跡〜晋国新田遺址
 3日目の朝は、7時のモーニングコール、8時半に臨汾のホテルを出発。
10時15分に、目的地の候馬に到着した。大型バスが、なんの変哲もない普通の町中に入ると注目を浴びる。
ここは観光都市ではない。ごく普通の、山西省の典型的な庶民の町なのだ。
ここ候馬では、晋の遺跡が発掘され、候馬盟書など重要な遺物が発見されたことから、山西省の考古研究所の分室が作られている。(写真29)
残念ながら土曜日だったので、研究所はお休み。しかし我らがGさんに手抜かりはない!
事前に建物内の地図を見せてもらうために、特別に鍵を開けてもらう予約がきちんとされており、我々は考古研究所の分室前でバスを降り、無事に中に入ることが出来た。
ロビーの正面には、「晋国新田遺址」と書かれた巨大な地図がかかっている。(写真30) 
北の汾水と南のカイ(サンズイに会)水、2本の川に挟まれた真ん中に、3つ、線で囲われた遺址がある。
これが、発掘された3つの城跡、牛村古城、平望古城、台神古城である。(写真31)
しかし、晋国であったという区切りを示す城壁は発掘されていないとのこと。
この区域は上下を川に挟まれ天然の防壁となっているため、城壁を作る必要がなかったのだろうと考えられているそうだ。
また、3つの古城址の東側にも小さな城址が発掘されており、東からの侵入に備えたものだと考えられている。
また、青銅器製作の竈後も発見されているそうだ。
「沙中の回廊」の作品中の時代に主に晋の国都となっている「」は、カイ(サンズイに会)水より南にあったとのことであり、3つの古城より少し離れている。
カイ(サンズイに会)水とは、「沙中の回廊」の冒頭で、士会主従が負傷した郤克の乗った小舟を流した川である。
晋の2代〜17代までは翼城に都があったが、18代の武公(重耳の祖父)が曲翼を滅ぼし、絳へ国都を移したのである。
後の、晋の景公(士会が仕えた最後の君主)の時代に、絳から候馬へ国都が移されたとのことであった。
ということは、晩年の士会がここ、候馬に居た、ということである!
ちなみに、候馬が晋の首都であったのは、B.C.595年〜B.C.363年、太原で見た「候馬盟書」もこの時代の物である。
以上のようなことを、紙の地図を丸めた棒で、指し示しながら、Gさんが説明し、熱い質問や感想が矢継ぎ早に飛ぶ。
みんな、興奮気味である。
研究所の建物の前の通りでは、西瓜売りがいる。リヤカーに秤と西瓜を載せ、「西〜〜瓜〜〜(し〜ぐわぁ〜〜)」と呼ばわる中年の婦人は、もの珍しげに我々を見る。
外国人観光客など来ない町で、日本人を見たのは初めてではないだろうか。
西瓜は美味しそうだったし、リヤカー・秤姿も珍しかったが、私はその人の写真を撮ることができなかった。
この通りが、表の大通り(鉄道の駅前通りらしい)と交わるところに「候馬晋国遺址」の石碑が建っていた。(写真32)

小麦畑の地中に眠るもの
 研究所の前から再びバスに乗り、町中から村の農地へバスは乗り入れる。
バスから降りると、向こうの建物の壁には大きく「牛村」の文字が!う〜〜ん、一目瞭然である。
一面黄金の小麦畑の手前に、「牛村古城」と刻まれた石碑が建っている。(写真33)
そこから畑の少し先に小高い台地が見えるのだが、そこが古城跡なのだそうだ。(写真34)
さらに一同はバスに乗り、次の平望古城跡へ向かった。
村の田舎道は、昔ながらの土のあぜ道で、大型バスが通るようには出来ていない。
のんびり道を歩いていた羊たちの集団は、初めて見る観光バスに驚いて、大慌てで脇へ逃げる。(写真35)
羊たちには申し訳なかったのだが、日本では見られない珍しい光景だった。

さて、次の平望古城も、「平望宮殿台基」と書かれた石碑の先に小高い丘があるだけであった。
しかも、石碑には赤いペンキで落書きが…。
(写真36)
さらに次の台神古城に至っては、丘も台地もなにもない。見渡す限り四方を麦畑に囲まれた道路(アスファルト舗装)の側にぽつりと石碑が建っているだけ。
そしてGさんが言う、「このすぐ先がカイ(サンズイに会)水です。」(写真37)
そう言われて周囲を見渡して初めて、黄金の小麦畑の上に、古代晋の国の姿が映るように思えた。
表面の姿は変わっても、川も地形も大きく変わらない。
確かに、この位置が、晋の城だったのだ…。今は一面の農地だけれども。
Gさん曰く、これら3つの古城の遺址は、すべて地中に眠ったままなのだという。
つまり、地中に埋め戻しておくのが、一番最良の保存方法なのだそうだ。
確かに現状ではそうなのだろうと思うが、いつか遺物が誰の目にも見えるよう、公開されるといいなと思う。
台地にしても、盛り土がある部分は、村人が土を持っていってしまうので、ほとんどなくなってしまうのだということである。

こうやって石碑に群がっている私達の所へ、自転車に乗った老村人がもの珍しげに近づいて来て、言葉が通じないながらもメンバーと何か談笑していた。
きっと、酔狂な外国人だと思われたことだろう。
でもいつか、中国国内の観光客も訪れる場所になるといいなと思う。
その価値が学者だけでなく、一般にも広く知られる日が来るといいなと思うのだった。

村を離れ、候馬市内のホテルで昼食を取った。
西洋風の中庭が印象的だった以外は、ここはあまり記憶がない。
昼食のメモが残っているので、そのまま書いてみる。
「麺を食べる。刀削麺である。卵トマト味と、肉みそ味の2種類であり、具を混ぜて食べるのだが、伊勢うどんのようである。
(注:伊勢うどんとは、柔らかくゆでた麺に、色の濃いタレをからめて食べる伊勢地方独特の食べ物。この時はどうやら、柔らかい麺だったらしい。)
セロリのそぎ切り油炒め、チャーハン、「めっちゃ太い」春雨、ナツメ、豚肉、ジャガイモ、卵豆腐炒め、茄子。」
全体的に、候馬は、のんびりした雰囲気の田舎町という印象だった。
リヤカーの黒酢売り、西瓜売りが行き交い、羊飼いも歩く。あぜ道の木陰には、昼寝する人々。自転車で近づいてくる村人。
観光地では絶対お目にかかれない、中国の農村の良き姿を見たという印象が残った。

「黄金の箸」
バスは、一路南へ向かう。
山西省から黄河を越え、隣の河南省、三門峡市へ入るのだ。
現在、この山越えの道は、整備工事中であり、時間がかかるかもしれないとのことである。
長いバスの道中で、これが最後の同行になる山西省ガイドのOさんが、幾つかの話をしてくれた。

日本へ行った中国人料理人が、銭湯の「男湯」「女湯」の表示を見て、ぜひ味わってみたいと思った話。
(中国では、「湯」とはスープのことであり、日本のように「暖かい水、風呂」の意味はない)
また、日本語は言葉のはじめに「お」を付けると丁寧になるから「奈良」にも「お」を付けて笑いを買った話。
そういった話の中でもっとも心うたれたのが、長らくガイド生活をしてきたOさんが、体験したとある日本人ガイドの思い出である。

「金の箸」
数年前、Oさんは、ある日本人グループのガイドを引き受けた。
それは、戦時中に山西省に駐留していた元軍人のグループで、当時駐留していた村まで行きたいとの希望であった。
道路も整備されていない山奥の村であり、一同の平均年齢も80才程、かなりの強行軍である。
早朝からお弁当を持って、その村へ向かった。村まで来ると、やはり、当時占領していた村の中にはとても入れないと言うので、その近くで、その地で亡くなった人達の冥福を祈ったのだそうだ。
その中で、1人の男性が、どうしても村で会いたい人がいる、と言う。
その人の名前を聞いて、村で探し回ったところ、同じ姓の人がいたが、どうやら1人は違う。
もう1人の方は尋ね人の親戚であり、聞いたところ、大昔に村を出て今は太原市内で働いていたとのことであった。
そしてその翌日、太原市内の工場に尋ねてみると、すでにその人は退職し、市内に家族と住んでいるとのこと。
どうしても、というその日本人客の強い願いで、夜遅く、ついに突き止めたその人の家に、Oさんは一緒に伺ったそうだ。

その日本人はコックをしており、徴兵されて日本軍のコックとしてその村にいた。
(5つ年下の弟が戦死したため、東郷元帥が大嫌いだと言っていたそうだ)
彼は軍の食料調達係もしており、兵舎に食料を届けてくれる村の青年と顔なじみになった。
その青年は、戦死した弟と同じ年であったため、彼が弟のように思えて親しくなり、上官に隠れて食料を渡したり、なにくれといろいろかばったらしい。
やがて、日本が敗戦し、軍も兵舎を捨てて日本に逃げ帰ることになった。
そのコックも、青年に残ったものを渡して別れる時、その青年が、家で使っていた自分の名前が彫られた金の箸を餞別として渡してくれた。
それから日本に帰り50年以上がたち、その箸も紛失してしまったが、彼は決してその青年のことを忘れることはなく、生きているうちに一度再会したいと思い続け、今回中国へ来たのだという。

その家を突き止め、ついに当時の青年に再会した。
その家では、深夜の訪問者を息子夫婦共々暖かく迎えてくれたが、すでに70代後半になった彼には、50年以上も前の占領時代の話はほとんどぴんとこないようであった。
それでも辛抱強く過去の思い出をいろいろ話して、金の箸の話をした時、彼は、はっとなって記憶が蘇ったのだった。
そして、いろいろ当時の事が段々と思い出され、涙ながらにガイドのOさんに、「私はもう日本語もすっかり忘れてしまった。どうか、私の話を通訳して彼に伝えて欲しい」と話し始めた。
村に日本軍がいた時、食料調達をごまかしたことがばれて、村で叩きの刑にあったこと、等々いろいろな思い出を、Oさんをはさんで二人の老人が涙ながらに夜中まで話したのだという。
そして、その日本人は、彼に再会したら渡そうと思っていた日本製の腕時計を贈り、真夜中になってから辞去してホテルへ戻った。
それからOさんが自宅に帰ったのはすでに深夜であったが、彼から心からの熱い感謝を受けたそうだ。
その翌朝はすでに帰国である。
空港には、その老人が息子夫婦と見送りに来てくれて、餞別も持ってきてくれた。
80才の老人と75才の老人が言葉も通じぬまま手を取り合い、年齢的にも、おそらくもう会うことが出来ないだろう別れを惜しんでいた。
Oさんは、この体験話を「金の箸」と題してガイド雑誌に投稿し、掲載されたのだそうだ。

この話をしてくれた時のOさんは、未だに深く心に残る心打たれる話ぶりだった。
当時の労力も、気遣いも並大抵ではなかったと思うが、ガイド冥利につきるという思いだったのだと思う。
聞いていたツアーメンバー一同、感動して拝聴したのだった。

そして黄河へ!
候馬から黄河へ至る山道は、どんどん険しくなる。
かなりの高地になり、下の平野が見下ろせる。
この山の中腹は、春秋時代に「虞」国があった場所だという。(写真38)
黄河を挟んだ対岸の「カク」国とは唇と歯の関係で知られた国である。
曰く、晋がカクを攻めるために、虞を通過させて欲しいと言ったところ、虞はそれを受け入れた。
カクが滅べば、晋とカクの中間地点にある虞が侵攻されないはずがない。
カクの滅亡後、果たして虞も晋に武力併合された。
この時の君主の愚かさを言ったのが、「唇滅べば歯寒し」という故事の由来である。

そして、観光バスは、工事用トラックに混じって山道をひた走り、黄河を渡る橋へ向かう。
途中、ガソリンスタンドでトイレを取ったが…ここは、個室の仕切すらない、ただの乾燥した穴であった。
なんというか…人間慣れれば、なんとか用は足せるものである。
そして候馬を出発し、3時間近くもでこぼこした田舎の山道を走り続けてきたバスは、ついに黄河のほとりに辿り着く。
これが、山西省から河南省へ抜ける、昔からの1つの経路である。
この途中で通った「運城」はもともと塩田があったところで、関羽のふるさとなのだそうだ。

中国では単に「河」と言えば黄河を指す。
昔からの暴れ川には、今は何本か橋が建設されている。そのうちの1つが、この大橋だ。
橋のたもとには、砂ぼこりにまみれた簡素な食堂やガソリンスタンドが、こぢんまりと並んでいる。
そんな店々の前を我々のバスはあっさり通りすぎ、次の瞬間、バスは一気に橋の上に乗っていた。
「これが黄河です。ここを越えると河南省に入ります。」
説明の声に、みんな興奮して窓の外を覗き込む。
広い広い河床に樹木が生え、畑があり、どこからが河なのかはっきりわからない。(写真39)
やがて水の流れが見えてきたが…思ったよりも河幅がない。
私は黄河を見るのは始めてではないが、もう少し雄大な印象があった。
説明によれば、今は渇水期なのだそうだ。
う〜〜〜ん、残念…。と言っている間に、みるみるうちに対岸が近づいてくる。
そして橋はた広い河床にのり、ついにバスは黄河を越えて、カク国のあった河南省・三門峡市に入った。

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